決戦4大会


デビューするキッカケを作ってくれたのが『スター誕生』でした。
私の出場した決戦大会を最後に番組は、終了してしまったから思い出深い感じがします。

あの当時の事を振り返ってみると決戦大会に臨んだ時の事より、決戦大会に出るまでの長い道のりの方が、ずっと強烈に私の心に焼き付いているんです。

幼い私が少しずつ目標に向かって、懸命に歩いていた姿が自分で想像しても愛しくなっちゃう。

歌手になりたいと思い始めたのは、小学4年の頃でした。
歌手っていいなぁと思っていた私も合唱部に入り、自分で歌を唄う楽しさを知ってからは、将来は歌手になる!って決心していたんです。

友達が聞くんです。
『大きくなったら、何になるの?』

『エッ?まだ判んないよ』って答えてました。

友達に歌手になりたい!と正直に言ったら、笑われてしまいそうだったから。

中学生になってからも本当に親しい友人とお姉ちゃん以外には、歌手になりたいって事は打ち明けませんでした。

夢や憧れは、本気でぶつかって行けば、自分のものにしていける気がするの。

私は夢の実現の為に行動を開始しました。
ありとあやゆるオーディションにチャレンジしたのです。
運よくニコン・フレッシュギャル・コンテストには合格して、モデルもちょこっと経験したけど、歌手になれそうなオーディションには全て落ちちゃいました。

雑誌や新聞TVなんかのオーディション情報をくまなく探してました。
『スター誕生』にも、もちろん応募ハガキを出しましたよ。
だけど、ホント返事が来なかったんですよ。
ハガキを出したのが冬。
春が来て、夏が過ぎて、秋も過ぎてしまって、とうとう1年後の冬も来ちゃいました。

毎日、ポストを見ては「ダメだったのかなあ…。明日には、きっと来る」そう自分に言い聞かせていたのでした。

私も中学3年生。
「もうダメだ。もう諦めめるしかないのかなぁ」

ガックリきて、半年たった6月のある日、1年半ポストを見る習慣が出来てた私は、ついポストを見てしまうのです。
遂に待ち焦がれていた予選通過の合格通知を見つけました。

「やっぱり、来た!」

神様に私の気持ちが通じたのかしら?
その嬉しさは、十倍位でした。

地区予選を無事通過し、今度はTV予選。
名古屋のTV局だったので、私は誰にも言わず一人で予選に臨むみました。
これが10月でした。

中3の10月といえば、高校受験を控えた大事な時期です。
私にとって、この予選が運命の分かれ道です。
受験も気になったけど、私にはこの予選の方が大事だったのです。

歌う時も緊張して、でも必死の思いが審査員の方に伝わったのか、遂にTV予選にも合格しました。
そして、いよいよ決戦大会です!と、すんなり事が運べば問題なかったのですが…

これからが大変でした。
お母さんに報告すると想像していた通り、決戦大会出場は大反対。
なんとか、説得してみようと思ったけれど、「何いってるの。高校受験控えているのよ。こんな大切な時期に」

「だって私、歌手になりたいんだもん」

「だってじゃないの。反対ですよ」

「どうして、判ってくれないの!!」

悲しくて悔しくて、涙がポロポロ零れて来ました。

12月の決戦大会に合格したら、私は歌手!気分は最高!と思っていたのは、私だけみたい。

担任の先生も大反対。
先生にしてみれば、決戦大会に出場して不合格だったら、歌手にはなれない。
受験勉強はしてないから、希望校にも入れないでは佐藤佳代の人生にとって、大変な事だと考えたんでしょうね。

両親も今までの様々なオーディションには、「どうせ遊び半分」とうるさい事も言わず許してくれていたけど、『スタ誕』の決戦大会となると、ホントに合格しちゃったら、歌手になっちゃうので不安になったのです。

両親は娘の芸能界入りなんて考えてもなかったから。
両親は私が何を言っても承知してくれません。
私は反対された日以来、両親と口を聞かなくなりました。
ベッドに入ったまま、食事もしませんでした。
私の抵抗でした。

「佳代ちゃん、御飯よ」

「………」

「そんな何日も食べないと身体を悪くするから」

「………」

数日間、こんな状態が続きました。

私は、もう一度、両親を説得しようと手紙を書く事にしました。
歌手になりたいと思い続けてチャレンジを続けて来た私。
失敗の連続でようやく手に入れたチャンスです。
それをみすみす手離す気にはなれません。
書いては破り…、喋るとすぐ泣き出しちゃうから、手紙に私の気持ちを全て書き尽くしました。

そんなある日、お母さんが「あなたが、そんなに決戦大会に行きたければ、3つの条件が出来たら、出させてあげるわ」

「3つの条件?」

@学校のテストで学年1番をとる事。
A中部統一試験で学内5番以内をとる事。
B第1志望の向陽高校に合格する事。

結局、これらの条件を全部満たして、決戦大会に出られたけど、これを聞いた時は正直、「そんなの出来る訳ない」って思っちゃった。

普段から勉強しないでマンガ描いたり、歌の練習したり、鏡見て遊んでばっかりの人だったんだもの。
この条件は無理といっていい位に難しいものでしたからね。
けれど、私は決心したの。
「やってみよう!!」って。

高校入学が条件に入っているから、12月の決戦大会を諦めるのは辛かったけど、条件を満たす事が先決と思ったから。
『スタ誕』に出る為という目標があったから、出来た事のように思う。

自分がやりたい事の為に自分の力を試してみたかったの。
だから、最後まで自分の責任として、やり遂げたかったのです。

早速、本屋さんに走って参考書を買って来ました。
こういう時だけは、行動を起こすのが早いんだ。
朝昼夜となく勉強しました。
好きな歌番組も見ず、マンガも描かず。
普段から勉強してないから、基礎からじゃ時間が足りないんですよね。
もう丸暗記です。
模擬テスト用のドリルを飽きる程、繰り返しやりました。
辛い時もありました。
カゼを引いて熱で身体がだるい。
単語を覚えようとしても全然、頭に入らない。
やっぱり、無理かな…
負けそうになる時は、自分が歌手になった姿を想像して、今、頑張れば
、きっと私も歌手に…
気をとり直して机に向かいました。

一生懸命勉強するとクラスで5番位の成績だったんだけど、テストのある度に上がっていくんです。
そうなると面白くなって来るでしょ。
5番が4番に。4番が3番に。
これは、もしかすると…なんて考えてね!!
『スタ誕』の為だけでなく、本心から勉強の方も面白くなりました。
だから、かなり真面目に努力しました。
その甲斐あって、その年の冬のテストで学年1位と中部統一試験で学年5位以内に入る事が出来たのです。
この発表があった時、本当は私も出場できた『スタ誕』の決戦大会が行われました。
私は次の決戦大会に賭けています。
私に残された条件は、高校入学だけ。
気を抜かず受験日まで勉強を続けるだけです。

今でも忘れはしません。3月19日、第1志望の名古屋市立向陽高校の合格発表日でした。

「エーと、50番…60番…、あった!!65番!!私の番号があった!!」

これで、決戦大会に出られるのです。

1983年3月30日
後楽園ホールで行われた決戦大会。
時間は余裕を持って来ているのだけど、気持ちがアセッて本番近くなると胸が異常にドキドキしてきました。
まるで心臓が飛び出しそうなくらい足がガタガタ震えて、緊張しすぎて唇も乾いています。

スタッフが運命の時間を知らせに来ました。
もし落ちたら歌手になれない…

お母さんが待っている名古屋の家へ飛んで帰りたい。
泣きたい気分でいたのです…。

『スローモーション』のイントロが流れて来ました。
スポットライトを浴びて、私はステージの中央に立っています。
あとはハッキリ自分でも覚えていないのです。

自分の持つ力を全て出して歌いました。
ずっと歌手に憧れて『スタ誕』の通知を1年半も待って、決戦大会のステージに立っている。
そして…見事にチャンピオン!!

4月にサンミュージックプロダクションに所属が決まりました。
あの松田聖子さんと同じ事務所です。
長い道のりを経て、私は歌手への第一歩を歩き始める事になりました。

プロとして、一人前になる為のレッスン。
ダンスの先生、ボイストレーナーの先生、レコードのディレクター。
初めてのレコーディングを見守って下さり、作詞をして頂いた竹内まりやさん。
ある時は厳しく、何も判らない私を指導して下さいました。

今でもそうだけど、私は目標に向かって走り続けている時が好きです。
必死に勉強を続けて、なんとか決戦大会出場の条件を満たす為に頑張ってた私。
怒られながらもデビューの為にレッスンを続けた私。
もしかしたら、私は歌手になった事より、歌手になる為のプロセスで大切なものを得たのかもしれません。
そういう意味で決戦大会は、私の大きなエポックとなりました。

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